昭和45年3月18日 朝の御理解
御理解第98節
「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」
これは、一番焦点にしなければならないところは、平気でなければならんと言う事だと思いますね、いわゆる、平静心です、心が平静でなかなけりゃばならないと言う事です。 ですから、その、いつでも平静であることを願うわけですけれども、そのために信心させてもらうのです、ね。
心をとがめると申しますね、心をとがめると、ですから、心をとがめるようなことがあってはおかげになりません。ね、人間がそれぞれ両親というものがありますから、ね、そのいわば、両親の仮借とこういうなことも申しますね。そこで私共がいつも平静であるために心の仮借、または、心をとがめるようなことを言うたり、行うたりしてはならんことになります。ね。
その自分の心の平静さ加減とでも申しましょうかね、自分の心の状態が私共の信心の状態なんです、いわゆる、自分の心、自分の信心というものを分かるためには自分の心の平静さというものを考えたら言い訳です。
普通なんともない時は誰でも平静のようにしてますけれどもね、ちょっとなんかじら立ちますと、もう心が、いわゆる、心に波風が、( ? )言うなら不安になってくる、心配になってくる、ね、こう言うなどは平気のようであって実は平気ではない事になります、ですから、段々信心させて頂いておりますと、教祖の御教えにもありますように、これから先、どのようなことが起こってきても驚いてはならぬぞ、信心するものは、その驚かんで済むというかね、心に波風が立たない、ちょっと自分の思いようにならないと、もうぱっと顔色が変わる、まあ、顔色が変わらんにしましても心に波だつ。そこで、その、やはり、心が信心の定規であることをその事によって悟り、あー自分な、まだこの位なことだなということなんです。
そこで、まあ、一番大事なことは、その、神様ですね、神様のおかげを受けて立ち行くと言う事、神様のおかげを受けなければ立ち行かんと言う事、それを、いわば、信じきらせて頂く、ね。
昨日の御理解にございましたですね、根本的なところと、自分が生きるのじゃない、許されて生きるのだと、神様のおかげを頂かなければ生きられんのだと、そのところの根本的姿勢と言うものが出来ると言うか、それを信じられるところにです、例えば商売をさせて頂いても利とか得とかということを言わんで済む訳です。ね。
ここでこれだけ儲からんならんと、儲からんと食べられんというような考え方ではなくてです、例えそこでは損しとっても神様が他のほうから回してくださるというか、ね、立ち行きは神様がさせて下さるんだという信ずる所から昨日の御理解を例に取りますと、御機感お心に(叶うた-かのうた)商売が出来る事になる訳です。
で今日のところもやっぱりそんな感じですね。ギリギリのところはです、神様のおかげを頂かなければということを信じておるから途中で、例えば普通で言うなら波風の心が立つようなことを聞いたり言うたり致しましてもです、ね、動揺しないわけです。
なかなか、そこのところを目指してもらう、心にいつも定規を仕分けるということは、自分の平気さ加減と、ね、ここでは平気でとこう仰っておられる、いわゆる、それをもう少し詳しく言うと平静心と言うことになる、平たい、静かな心ということ。
それで、自分はいかにも平たい、静かだ心であるように思うておりましても、ね、平穏無事の時にはもうなーんにも欲しい物もないといったように言いよるけれども、さあー実際のところですよ、まあ、例えて言うなら家内がもう米物には金、米なら、もう今日一日分しかありませんよと例えがいう事に致しましょうか。もう心が動揺してくる、ね、神様が生かしてくださるんだ、食べさせてくださるんだと言うことであったら、例えば今日頂く米がありゃー、もうそれで良いことになる、そういうことでしょうね。
平静心、そこで、、まあ、信心の初歩とでも申しましょうかね、まあ、お参りをしておかげを頂くと言うことはどういうことかと言うね、お願いをするお取次ぎを頂く、不思議に心が静まってくる。もうそれは、不思議な事ですよね、ここで例えばおまいりをしてきて、お取次ぎを願ってそれでも心が平静にならないとおかげになりません、ね。
昨日、ここ2、3回お参りをさした方が、あの・・・、うん・・・、合楽、合楽と言う事は聞いてはおったけれどもね、2回、3回とこうやってお参りをしておる内にです、はあーこの先生の言う通りにすりゃおかげになるじゃろうとこう思い出した。
ですから、まあ、本当に不思議なおかげになってきておるという御礼に昨日出てきました。ね。それが平静心なんです、まあそりゃ初歩ですから、じゃろうぐらいなもの。はあー自分に助かる道が自分の一家が助かっていく道が合楽から開けてくるなあ-と思った、ね。
そこからもう不思議な不思議な働きが始まってきたんですよ。もう、神様も仏様もない、もういうなら無神論と、無神論者と、もう自他共に言うておった人が、ね、ある事に直面して、これは何様にか頼らにゃでけんって言う事になってきた。ね。
そこで、まあ、合楽に、そのお参りしておったこと、隠しておったんですけれども、もう初めてその合楽と言うことを、言う、ご主人に話されたら、そんならお前が参ってくれというような働きになってきた。
だから、もう少しおかげになってきたら、実を言うたら、ね、もう前にもこうしてお参り致しましたと、そして、実はこう言う不思議なおかげを頂きましたということをもう実際に頂いておるのですから、もう話す機会がもうすぐそばにきておると言う感じです。ね。
これは自分が助かられる、やっぱり合楽の先生にお取次ぎをねごうたらこれは自分の一家が助かるぞと、助かるじゃろうという程度に感じる。そしたら働きが始まって来た。もう、不思議な不思議な働きなん、ね、もう本当に話を聞かせて頂いておってから神様のお働きって素晴らしいと、ね、それはお取次ぎを頂いたからだけじゃない、お取次ぎを頂いたら自分の心に、はあー自分がこれから助かられる。
大変息子さんが難儀な病気にあっておられますが、これは息子も助かられる、おかげを頂きゃ無視論と言う自分でもいうておるお父さんも、ここで信心させて頂くようになるじゃろうと思いよったら、ね、あまりに子供の病状が、あんまりひどいのを見てきてですね、ご飯をいただきよったげなら、その、俺はどこにか参ってくるち言い出した、急に、あーいう神も仏も言わない人がですね、例えば親戚の方達が信心のことでもみえたら、もう他のこつならよかばってん、神さんと仏さんていうならこらせんち言うてから、いうような人じゃった。ね。
それが、もう本当にあの状態を見てきて、もう御飯もいけんごたった。まあ、ふつふつとして御飯を頂きよったら急に立ち上がってです、その、何様にか参ってくるちこういう、だから、お父さん参りなさんならばちょっと待って下さい。ね、実はこうこうだと、自分が1、2回、2回ここにお参りをさせて頂いて聞かせて頂いた話をです、ね、まだ参ったことになってないのですから、こう言う所があるげなけん、私がそこにお参りをするとこういわれる。そんなら、お前に任するけんお前は参ってくれということ(笑い)、そういう不思議な働きがはじまっている。
ここにお参りをさせて頂くと言うことになってね、本人自身も大変な、もうそれこそ、ただ奇跡と言わなければ悪いほどのおかげを頂いてます。ね、それがどういうことかと言うと、勿論の神様の特別ななんか願いという掛けられておる人じゃなかろうと思うくらいです。ね。
何回しか参ってこないのに、それが、なら私どういうところから、お取次ぎを頂いたからおかげを頂いたというのじゃなくて、お取次ぎを頂いたらこの先生の言う通りにしとりゃこれはおかげが頂けるじゃろうと、自分の家の中のこう言う難儀な問題でも、ほのぼのと少しばかりですかね、まあ、光が見えそめてきたわけなんです、心に少し平静が出来て、平静心が生まれた。不安でたまらん、心配でたまらなかった事がそういうおかげになってきた。
2、3日前に久留米の佐田さんがお参りされる、そしたら丁度光昭が御用をさせて頂いとった。そしたら、いろいろと、まあこんこんと御理解を、まあ、説いたらしい、ところが親先生に会いたいと、もう親先生にお届けしたいとこう思うておったところが、その、光昭ちゃんじゃったので、実はがっかりした訳なん。(笑い)ところが、光昭が言うたことにね、あなたがね、あれは佐田さんじゃなかったかな、( ? )でしたかね、(信者さんが何かを答える)やっぱり今話したあの方だったね、、あーそう、(信者さんが何かを答える)今私がお話した話、ちょっと名前を申しませんでしたけれども、その、お導きをしたというのは佐田さんのことでした、その方を連れてお参りをした時でしたかねやっぱりそうだっただろうと。
ところがですね、はあーもう親先生と言う人がござらんやったけんガッカリした訳なんですよ、実は。ところが、こんこんとお話をするけれども、もうやっぱ、( ? )それで、その、まあ、光昭が言うたことはね、ね、若いあんちゃんが話しござると思うて聞いたらおかげになりませんよちいうた、ね、そしたらね、(笑い)なんか電気に触れたごたる気がしたち、その人がいうてくる。ね。
それから、説かせて頂いたお話が、もう、とにかく素晴らしいお話に聞こえてきた、そこから平静の心が生まれてきた。ね、ですからね、なんでもそうですよ、親先生がはあーよかった、親先生が座っちゃったけんなんてんよくいう人がありますけれども、それは、なら光昭あたりのようなまだ、いうなら、あんちゃんですよね、がお取次ぎをさせて頂いてもです、こちらの頂き方が、ね、金光様のお手代わり、親先生のお手代わりとしての頂き方。
あなたはね、私が話しよるとば、はあ若いあんちゃんが話よると思うたっちゃあなたおかげになりませんよっちいう。
話したけども、話したけれども通じないものがある訳ですね。ですから、中でそういうことを言わしたところが、そん時に電気にかかったような思いがしたとこういう。
それから、そのこんこんと説かれることが、佐田さんが横で聞いておって言われる、とても、とても光昭さんが話される話じゃないと思うたち、佐田さん自身もそげんいうておられます。ね。
本人がそういう気になって頂くという気になった時にです、これは光昭ちゃんじゃないと思うて私までおかげを頂いたという意味のことを話しておられますがですね。
ですから、ここに折角参ってきても、先生がおらんじゃったからと言うて帰ったんじゃおかげにならん事が分かる、お取次ぎを頂きゃおかげになるちう、お取次ぎを頂くと心に平静な心が生まれる、おかげが頂けれるという心が生まれる、と言うことが分かりますでしょう。
そりゃーね、今のその事が本当に私おかげになったらまた皆さんに聞いてよく聞いて頂きますけれどね、そのおかげのその道筋、過程、過程というものが素晴らしいんですよ、今の話の内容なん。ね。
その、今申しました、その、お父さんちうのが、その前の晩に、夜中までですね、信心の話を、信心のしの字も言わなかった人が、夫婦でお話を佐田さんのところに聞きにきたち、まあ、それまでの働きがもう、とにかく、まあ、なんともかんとも言えん素晴らしい働きがやっぱあっておりますですね。そういうような働きがです、はあー、この神様なら助かると思うところから私はそういう働きが始まったんだと思いますね。
心にいわゆる、平静心が生まれた、そこで私はね、神信心の、心は神信心の定規じゃによってということの、その心というただ平静というだけではです、なーんにもない時には誰だって平静のように見えるんだと、だから、その、ただ心が静かであると言う事だけではあんまりあてにならないということが分かります。ね。
そこで、最近私が申しております、和賀心と言うこと、自分の心の中に果たして今、どれほど和賀心があるかと、またその事を思うておるかということ、ね、このへんから、まあ、言うなら今日の御理解の、まあ、中心になる所です。ね。
いうなら、もう寝ても覚めてという事、寝ても覚めても和賀心、和賀心、はあーこう言う思い方をしたんじゃ和賀心が崩れる、ね、と例えばその和賀心と言うものを自分の心の中にです、ね、頂こう、頂こうとする姿勢がいつも、それは寝ても覚めてもそうである、しかもそこにそのことに熱情が掛けられと言う所に信心が生き生きとしてくる、いわゆる、おかげは和賀心にありと言うこと。ね。
私、昨日、一昨日、久留米からの梅里先生が、お庭のことで来て頂きよります。昨日、一昨日、二日間で、まあ、済みました、見事な茶室の前の茶庭が出来上がりましたんですけれどね、うんー、まあ、私、これなんかでもですね、私はいろいろ、その、感じた事があるんです、というのは、もう、勿論梅里さんがあそこは自分が来てから必ずし直してやろうと言うておられたけれどもですね、実を言うと、私はもうあのまんまでいいとおもっとったんです。もうきなさらんなら、きなさらんでいいとおもっとったんです。それは、高山さんがしておられるのも、とにかくやはり、まあ、ある意味であか抜けしてましたしね、私の見た目では、ところがこの頃の十三日会の時に、その手洗いの所を掘りあげちしもうてから、水のはぎげの悪かなんかというてから、やり直してしもうとった、もうそれがもう、私は障子を開けて見るもないごと嫌な感じにでけてた訳です。仕事、仕事ちうかその、自分のはそれでよう出来たじゃろうばってん、そのように仰るけれども、もう私はもう茶室の障子を開けたくなかったからもう締め切ってしもうた、と言うほどに、私の気にいらなかった訳ですよ、その庭が、はあーもう本当に技術っちゃ大変なことだと思うですね。もう高山さんのお父さんがしておられる時にはもう、梅里さんが来てもらわんでいい、もうあげん言いよなさるばってんか、もう私はこれでいいと思いよったんです、実は、またいいと思うとったんです。ところが、その息子さんが来てからやり直してしもうてこうした所が、もうどんこん見られんごつなったです。お客さんがあちらのほうから来てもらうと気が引けるぐらいな感じやったです、もうどうした、仕事んでんこんせんたでないような感じだったからですからね、いわゆる、私の考えですね、私の思いでです、誰にでしたか知らん、正義さんじゃったじゃろうか、とにかくね、梅里さんにとにかく来てもろうてからやり直してもらわにゃん、どんこんいかんごつなったから私が確かに申しましたからですね、えー、久留米の古賀さんがなんかに話しましたです、五作三角ちうことでした。それから、婿に行かせたところが、丁度、この、昨日と一昨日でしたね、いわゆる、16日と15日が、あの、二日間だけあいとるから、二日間だけ行こうということになった。で、まあ、そこからまた私が新たなです、これは自分の我情でさせよるとこう思うたですから、非常に心にひかっかった、言うならば、今日の御理解でいうと、うーんー、うん、とがめるね、いわゆる、心をとがめる訳なんです、私の流儀とはちょっとも、例えば良かったつが悪うなったっちゃ、まあ、それが自分の信心だというふうな頂き方をするんですけれども、それは、どうも辛抱が出来ない感じがしたもんですからね、梅里さんも来てやるといいござったから、これは来てもろうてやり直してもらわにゃいかんとこう思うた、それで、そこで感ながらではなくて、私の人ながらで、いわば、古賀さんに行って貰った、そしたら、幸い15日と16日があいとるからということになって、ご承知のように14日はあのように雨降りでしたけれども、15日の朝からはお天気を頂いたんですね、そこで、私の心がです、とがめる訳ですやはり、そこでですね、一生懸命ここんところを詫びて、これから先は感ながらで行こうと言う気になったんですよ。
ところが、第一天候の上におかげを頂いた、はあ-神様が許してくださったなあという気がするんですよね、ね、植木を2、3本買うてもらいたいということやったから、植木を買いに行って貰ったんですよね、そしたら、私の小学校の時の友達がそこにおってから、合楽の先生は私どんが村の友達じゃった、これはお供えをさせて頂こうというて、そのお供えをしてくれた。第一そのお手洗いの石というのがです、もう非常に、これだけは私が厚情いうだけ厚情言うてよかっつじゃなかでけんよち言うて、そーりゃー、その正義さんにも言うてその、正義さんと高山さんと何日間がかりで見ては見たけども、そのいわっしゃるようなのがなかった訳です。
ところがです、ある人がこの石をお供えしたいから見てくれと言うた石を見られたら、もう、これは素晴らしいという石があった訳なんです、ほなもう、これはもう素晴らしかちう、私も見ても思うんです、本当に、その石がお供えになったんです、だからそれもすぐその場で掘らせて持ってきた、ね、そして、ここに見えてから、その、次々と感ながらな中に、皆さんがあーして一生懸命奉仕しておられる姿を見てから、梅里さんが昨日、一昨日言われることはですね、あの、これは誰でもかれでもがここでは一生懸命真心を込めて奉仕をしよんなさるけん、これは、俺とお前も今日と明日どうでんこうでん、もう奉仕せにゃでけんばいちお弟子さんにいいよんなさったです。で、先生今度それが私、もう神様に奉仕させて頂きますと梅里さんが言われるようになる。ここんところに燈篭を建てたいと言うた、そんならその燈篭を私がおかげ頂きましょうという人が出て来た、そこに、私の今までの心の、いわばとがめておったものがなくなる訳です、ね。
信じさせて頂くものはそういうようなですね、私は、あの、例えば、はあーこれは心がとがめるような時にはそこに一つ立ち止まってですね、元の平静な心が頂くまでに神様に詫びていかにゃいかん、詫びれば許してやりたいのが親心と仰るですから、詫びた、許したぞという印がです、もう天候の上から、植木のことから、その手洗いの石のことから、御用させて頂かれる方達のことから、その燈篭のことから、(笑い)なんからなにまで神様のおかげだなと、これは許された印だと分かった時、私がはじめて平静になれた訳です。
私の平静にならなかったらたくさんのこの、お取次ぎをさせて頂いておる人たちを、上にまで関わることですからね、そういうことなんですよ、だからね、自分の心にとがめるといったようなことがね、あってはならんのです。
これはいつも信心させて頂くなら心がけておらなければならんこと、それが、なら信心が薄いとです、平静心と、いわゆる、平気な心ですね、ここにいわれる、平静心となんにもないから平穏無事のごつしとるとと間違います訳ですよ、ね、別に心に心配もない、不安もない、イライラもせん、もうそれで自分が平静心のごと思うとるけれどもです、なんかの時にはもう、心が乱れるといったような心ではないと、そこで、今日は私がいう、私の心の中に和賀心をどれほどの迫力を持って求め続けよるかと言うことになるわけなんです。これが一番間違いのない、いわば、生き方なんです、ね、いうならば、寝ても覚めても和賀心、ね。
思い出すようじゃ惚れようがうすい、思い出さずに忘れずにというようにです、もういつもかつも自分の心に寝ても覚めても和賀心、和賀心、今日も和賀心を頂くことのための願いと、和賀心にならせて頂こうとする精進とがいつも心の中にあるというように、心に掛けどうしに掛けられるということなんです、ね。
そこにはですね、私は、いわゆる、本当の意味においての平静心に近い心がそこから必ず頂けると思うです、それほど神様に心を向けておるというのですから、神様は必ず平静心、いわゆる、おかげの受けられる心の状態と言うものをいつも下さってある。時々どん思うようなことではいかんということです。
昨日、一昨日、その梅里先生が見えました時に、先生はもう全然歯がないですから、もう、柔らかいもの、柔らかいもの、なんでもそんな風に心がけさせてもらう訳です。お茶を出し、御菓子一つでも、柔らかいものでなかにゃ頂きなさらん訳です。で、昨日でしたか、一昨日だけちょっと申しましように、あの、くず湯を頂いておりましたからね、くず湯を作ってある、とにかく、やはり、九代も続いたというお菓子屋さんで創ったのですから、実にそりゃ素晴らしいアジアのくず湯でしたが、それで私は、まあ、熱いお湯さえかければいい、すぐできるということだったのですから、私は繁雄さんに言うてから熱いお湯を持ってこらせましてね、そして、茶碗の中に入れてからやったんです、ところが、ひとっつもめばりがでらんです、さらさらしてる訳です。はあーこれはちったお湯がぬるかったつばいなあと、ねそれはもう太陽とたぎらかにゃいけませんよというてから、その、梅里さんが言われます、なら、たぎらかしてから、また今度は熱かつをもってきてしたばってんまたいけませんも、だから、これはいよいよ、くらくらたぎらにゃいかんばいのうちいうてから、またとうとう繁雄さんが持っていってから、食堂でその、いわゆる、ぐらぐらたぎよるとで、それをさせて頂きましたら、それが立派な頂かれるくず湯になりました。ね。
ですから、例えばですよ、今日私がいうこの和賀心で、ね、おかげは和賀心にあるという和賀心がです、ね、時々どん思うぐらいな信心の熱情ではどんなにその和賀心におかげがあると仰る、その和賀心が素晴らしかてもです、ね、その和賀心にならせて頂くための熱情がかけらなければほんなことにはならんと言うことですよ。
くず湯と同じ事です、たいてい、いうなら、お茶どん入れるとるなら、もうそれこそ、もう十分なぐらいにたぎっておるのですけれども、ね、3回しました、本当のくず湯を作るために、ね、くず湯の、そのくず湯そのものはです、立派なもんですよ、今いうごと、けれども、ちょこっと、ね、温度が低かったら、もうそれはくず湯にはなりませんということ、和賀心でもそうです、ね、和賀心、和賀心と言うとっても、時々どん思い出し聞いたぐらいな和賀心ではおかげになると仰るおかげにはならんのです、ね、だから、いかにその和賀心と言うね、それを同じですよ、和賀心は、同じくず湯と同じ事なんです、ね、3べん目にくらくらたぎるとばかけたら初めて、ね、本当のくず湯、食べられるくず湯が出来たようにです、その和賀心というところにです、本気で焦点をおいて、いわゆる、寝ても覚めてもというような熱情を掛けて初めてです、おかげは和賀心にあるというおかげに伴う心が頂かれるのです。ね。
教祖様のお言葉の中に、「おがまいでもよいのじゃが、氏子が心をとがめるから拝んでやるのじゃ、拝んでもらおうと思うてきて拝んでもらえんと、これはと思って心をとがめるとおかげが受けられるからのうと」、いうておられますね。
これは、私、今日、心がとがめるということをここから頂いた訳なんですけれどもですね、先ほど光昭と佐田さんとこの、がお導きしてみえた、その方とのお話の中からでもそうでしょうが、あー折角参って、親先生ちいう人はござらんやったと、もう心とがめるから、もうそれじゃおかげにならんっち、ね、けども、お道の信心の、いわゆる、御取次ぎていう御結界の、こう、の働き、ここに座らせて頂いて、お取次ぎさせて頂く者の在り方が、その金光大神の働きとして頂けれる信心、ね、あなたが、ね、若いあんちゃんが話しござると思いなさったらおかげになりませんよと、ね、途端に姿勢が変わった、そこから、次々と出てくるお話が有り難く頂けた、そこから平静な心が生まれた、とがめる心がなくなったと言う訳なんです、ね。
そこで、今日、私は、ね、私共の平気な心というのがです、平静心と言うのがです、平穏無事でなんでもないというような時にはです、平気でしておるようであるけれども、いざ、何かことと言う時に乱れるような心ではそれは本当なもんじゃないのだと、ね、それで、間違いのない平静心を頂かせて頂くために、和賀心と言う、その和賀心の、ね、であることを祈り願い続けさせていただく信心、いわゆる、寝ても覚めてと言うこと、寝ても覚めてもと言う熱情をです、和賀心一つに絞って、心に頂かせていただこうとする姿勢、それは和賀心になれなくても、そういう姿勢そのものがです、神様の心に叶うからおかげになるのです、ね。
自分がものを一つうおうとすること、態度でもです、はあ-こう言う態度が和賀心のある時にこう言う態度は取られはせん、そこから実意が生まれてくる。ね。
自分の心の中に和賀心がある時なら、こんなろくそうなものの言い方はでけんと思うから、ついそこの言葉づかい一つでも丁寧な言葉が出てくる訳なんです、そういうことに、ね、心を掛けどうしに掛けさせて頂くという熱情があって私はくず湯の例をとりましたですね。
和賀心、和賀心でもくず湯にかわりはないけれども、ね、ちょっとぬるかったら、もう本当のくず湯にならないということ、ね、私共が和賀心、和賀心といかに天地書附を毎日、毎日、これはもう金光教の信者であるなら、みーんな拝むたんびに唱えよりますことですからね、天地書附を、だからね、それだからおかげになるじゃありません、そのおかげは和賀心にありと仰る、和賀心を自分の心に頂き続けるための精進がです、信心の熱情をそこに、傾けての願い、いわゆる、寝ても覚めても和賀心と心の中に頂き続けさせて頂いて初めて、ね、おかげはありと仰る、和賀心におかげがあると仰るおかげが伴のうてくるのですから、ね、ここんところの信心の熱情を持って、おかげを頂かにゃかならん、同時に今日の98節から頂きますとです、その和賀心を求め続けておる心、ね、と言うものが自分の心の中にあるならば、それは尺度にかけても、まあ、きちっとした状態であると言う事がわかると言う事になりますよね。
心は神信心の定規じゃによってお伺いをする時はとりわけ、平気でなければならんと、落ち着いて静かに願えと、お伺いをする時にはと言うておられることを、例えば、ね、おかげを頂くにはと、お伺いと言うことは神様と交流すると言う事なんですから、ね、これはまあ、いうなら、誰にでも出来る事じゃないと思うんですよね、神様にお尋ねをするというようなことなんかなかなか出来ませんけれども、お取次ぎを頂く態度とか、または、おかげを受けると言うその心が、ね、とりわけ平気、平静心、平気でなかなければならないと教えておられますね。
落ち着いて静かに願えと、落ち着いて静かに願わせていただくと言う事、それは、今日、いつも自分の心の中に和賀心願い続けると、ね、別に、これはね、いわゆる、こちらの信心の熱情というものがある限りです、ね、これはもう、願い続けさせて頂いて本当言うたら願わんでもいつも和賀心と言うものが心の中に成就しておると言うようなね、おかげを頂くところがだいたいは目指しなんです。
けども、私共の場合はちょっと心許すと、もう和賀心ではない心になっておりますから、ね、そこんところを、いわば、思い続けると言う事、ね、だから、時々どん思い出すようなことではまだまだ、金光様、金光様ち口じゃ言いよるばってん、ほんなもんじゃないと、寝ても覚めても、ね、思い出すようじゃとにかく惚れようが薄いと、思い出さずに忘れずにというようにです、自分の心に頂き続けると言う事はね、有り難いこと、同時にそれに対して、もちいんになることじゃないのです、自分の心に頂くのですからね。
どうぞ。